張弘彦
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張 弘彦(ちょう こうげん、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた漢人将軍で、保定の大軍閥(漢人世侯)であった張柔の息子の一人。
『元史』には立伝されていないが『羅氏雪堂蔵書遺珍』に収録される『経世大典』の抜粋にその事蹟が記され、『新元史』にはこれを元にした列伝が記されている[1]。
概要
[編集]張弘彦は保定の大軍閥(漢人世侯)であった張柔の四男で、兄に早世した張福寿、順天宣権万戸・兼勧農官となった張弘基、その後に順天宣権万戸の地位を継承した張弘正らがいた[2]。張弘彦は弟の張弘規とともに若年の頃に郝経に学んだほか、騎射を得意としており、生涯で百匹あまりの虎を殺したと伝えられる。南宋の荊山攻めに功績があり、新軍総管の地位を授けられた。また、鄂州攻めにおいても先陣を切る功績があった。
第4代皇帝モンケ・カアンの死後に内戦が起こったが、張弘彦は他の一族とともにクビライに従う道を選び、中統元年(1260年)に張弘彦もクビライの本拠地であるドロン・ノール(後の上都)に移った。そこで順天路新軍総管の地位を得て、また中統3年(1262年)には新軍万戸とされた。
至元2年(1265年)、昭勇大将軍・郢州万戸の地位を授けられた。至元16年(1279年)、皇太子チンキムに召し出されて侍衛親軍副都指揮使に任命された。しかし40歳の時に職を辞し、その後80歳にして亡くなった。子は7人いた[3]。
順天張氏
[編集]張柔 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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張玠 | 張瑾 | 張琰 | 張珪 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
張景武 | 張景魯 | 張景哲 | 張景元 | 張景丞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
- 野沢佳美「張柔軍団の成立過程とその構成」『立正大学大学院年報』第3巻、1986年。
- 渡辺健哉「『羅氏雪堂蔵書遺珍』所収「経世大典輯本」について」『集刊東洋学』第103巻、中国文史哲研究会、2010年5月、82-94頁、CRID 1050852414444364544、hdl:10097/00132677、ISSN 0495-9930。
- 『新元史』巻139列伝36張弘彦伝