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李恒 (元)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

李 恒(り こう、1236年 - 1285年)は、モンゴル帝国に仕えたタングート人将軍の一人。西夏国の王族の末裔で、崖山の戦いを始めとする南宋との戦いで活躍したことで知られる。

概要

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李恒の先祖は西夏国の王族であり、李恒の曾祖父が西夏国の神宗李遵頊であった。チンギス・カンが西夏国に侵攻した際、李遵頊の子である廃太子李徳任兀剌海城の守将として抗戦し、遂にモンゴル軍に屈することなく討ち死にした。李徳任の子の李惟忠はこの時僅か7歳で、モンゴル軍に捕らえられてチンギス・カンの弟のジョチ・カサルに献上された。ジョチ・カサルは李惟忠をむしろ側近とすべく養育し、これ以後李惟忠の家系は代々カサル家(カサル・ウルス)に仕えるようになる。ジョチ・カサルが亡くなり息子のイェスンゲが跡を継ぐと、オゴデイ金朝遠征に加わリ山東地方の淄萊(後の般陽路)を投下領として与えられた。イェスンゲは李惟忠を投下領のダルガチに任じ、以後李惟忠の一族は般陽路を根拠地とするようになった[1][2]

李惟忠の子の李恒は幼い頃から聡明で、カサル家の王妃自らが我が子のように育てたという。1262年(中統3年)には早くも尚書省のジャルグチに住じられたが、兄にその地位を譲ったという。李璮が反乱を起こした時には父とともに真っ先にクビライに報告を行い、怒った李璮によって獄中に繋がれることになった。李璮の反乱が鎮圧されると李恒も釈放され、その功績を嘉したクビライによって淄萊路アウルク総管に任じられた[3]。李璮の乱後、李璮の率いていた軍団の多くは李恒が接収し、李恒の指揮下で南宋への侵攻に役立てられることになった[4]

1270年(至元7年)に入ると宣武将軍・益都淄萊新軍万戸に任じられて襄陽の包囲戦に加わった。モンゴル軍はそれまでの失敗を教訓に持久戦で襄陽を攻略する方針を取っており、李恒は城の西側に敵軍の救援を阻むための防塁を築いた。また、南宋の水軍が漢水を渡って襄陽を救援しようとした際には伏兵を設けてこれを撃退したため、水陸両面において襄陽城は外部との連絡を絶たれることになった。1273年(至元10年)に入ると遂に本格的な襄陽城の攻防が始まり、李恒は精鋭を率いて漢水を渡り、まず樊城を攻略した。樊城の陥落によって士気を失った襄陽もほどなく陥落し、クビライは李恒の功績をたたえて明威将軍に任じた。1274年(至元11年)にはバヤンを総司令とする南宋への全面侵攻が始まり、李恒もこれに従軍して東進した。陽羅保では南宋の将軍夏貴の子の夏松が率いる南宋軍がモンゴル軍を迎え撃ち、李恒がこれと戦った。李恒は戦いの最中に流れ矢を額に受けるという重傷を負い、バヤンから退却を勧められるも戦いを続け、遂に南宋軍を打ち破ることに成功した[5]

1275年(至元12年)には南宋の将軍高世傑らがモンゴル軍が占領した漢州・沔州を狙い、これを撃退するため李恒が鄂州に派遣された。この時、現地の豪民に率いられた盗賊の招撫も行い、数十万人を投降させている。続いて江陵・常徳などの地を守り、今度は湖南地方の平定に従事するようになった。湖南への進出はモンゴル軍伝統の左翼・右翼・中軍の3軍編成で行われ、李恒は「左副都元帥」としてソルドゥタイとともに江西に進出することになった。江西方面では南宋の将文天祥が頑強に抵抗を続けており、李恒と文天祥は現在の江西と福建の境界線あたりで一進一退の攻防を繰り広げた。ある時、文天祥の先祖代々は吉州にあるので、兵を派遣してこれを暴くと脅せば投降するだろうと進言する者がいたが、李恒は「どうして人の墓を暴くのに理があろうか」と一蹴したという逸話が残されている[6]。李恒は贛州を包囲する文天祥を精鋭を率いて撃破し、20万あまりの兵隊を出す大勝利を挙げた。敗走して福建方面に逃れる文天祥に対し、諸将はこれを追撃することを主張したが、李恒はこのまま追撃しても文天祥は今度は海沿いに広東まで逃れるであろうことを指摘し、先に広東方面を抑えて逃げ道を絶つ方策をとった。李恒の策によって逃げ道を失った文天祥ら南宋残党は崖山に逃れたが、李恒と張弘範らの攻撃によって遂に壊滅した(崖山の戦い[7]

1280年(至元17年)には中書左丞となったが、2年後の1282年(至元19年)には軍職を退くことを請い、長男を後継者として万人隊長の地位を継承させた。ただし、これ以後も完全に引退したわけではなく、占城(チャンパ王国)出兵の際には命を受けて補給を担当した。さらにその後、李恒は鎮南王トガンを総司令とする交趾(陳朝)遠征に従軍するよう命じられ、遠征先で李恒は王宮を占領し交趾の世子を捕虜とする功績を挙げた。ところが交趾の酷暑によってモンゴル軍に疫病が広がり、交趾の反撃を受けたモンゴル軍は遂に敗走してしまった。その道中、李恒は膝に毒矢を受けてしまい、兵卒に運ばれて思明州まで逃れることはできたものの、その地で50歳にして亡くなった[8]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻129列伝16李恒伝,「李恒、字徳卿、其先姓於弥氏、唐末賜姓李、世為西夏国主。太祖経略河西、有守兀剌海城者、夏主之子也、城陥不屈而死。子惟忠、方七歳、求従父死、主将異之、執以献宗王合撒児、王留養之。及嗣王移相哥立、惟忠従経略中原、有功。淄川王分地、以惟忠為達魯花赤、佩金符」
  2. ^ 杉山2004,217頁
  3. ^ 『元史』巻129列伝16李恒伝,「惟忠生恒、恒生有異質、王妃撫之猶己子。中統三年、命恒為尚書断事官、恒以譲其兄。李璮反漣海、恒従其父棄家入告変、璮怒、繋恒闔門獄中。璮誅、得出。世祖嘉其功、授淄萊路奥魯総管、佩金符、並償其所失家資」
  4. ^ 杉山2004,218頁
  5. ^ 『元史』巻129列伝16李恒伝,「至元七年、改宣武将軍・益都淄萊新軍万戸、従伐宋。襄陽守将呂文煥時出拒敵、殿帥范文虎復援之。恒率本軍築堡万山扼城西、絶其陸路。文煥等又以漁舟渡漢水窺伺軍形、恒設伏敗之、水路亦絶、遂進攻樊城。十年春、恒以精兵渡漢、自南面先登、樊城破、襄陽亦降。捷聞、帝賜以宝刀、遷明威将軍、佩金虎符。十一年、丞相伯顔大会師襄陽、進至郢州。宋以舟師截漢水、伯顔由唐港入漢、捨郢而進攻沙洋・新城、留恒為後拒、敗其追兵。至陽羅堡、宋制置夏貴遣其子松来逆戦、恒先陥陣、額中流矢、伯顔止之、恒戦益力、卒射松殺之。諸軍渡江、恒与宋兵戦、自寅至申、夏貴敗走、鄂州・漢陽倶下。以功遷宣威将軍、賜白金五百両。遂従伯顔東下」
  6. ^ 『元史』巻129列伝16李恒伝,「十二年春、宋将高世傑復窺漢・沔、乃遣恒還守鄂州。時豪民聚衆侵江陵、省命恒往討之、恒斂兵不動、但諭使出降、得生口十餘万、悉縦為民。仍禁軍毋得虜掠、饋献充積一無所受。十二年、従右丞阿里海牙至洞庭、擒高世傑。下岳州、進攻沙市、抜之。宋制置高達以江陵降、留恒鎮守。伝檄帰・峡・辰・沅・靖・澧・常徳諸州、皆下。未幾、徙鎮常徳、以扼湖南之衝。俄有詔分三道出師、以恒為左副都元帥、従都元帥遜都台出江西。九月、開府於江州。師次建昌県、擒都統熊飛。遂囲隆興、転運使劉盤請降、恒察其詐、密為之備。盤果以鋭兵空至、恒撃敗之、殺獲殆尽、盤乃降。下撫・瑞・建昌・臨江。軍中有得宋相文天祥与建昌故吏民書、恒焚之、人心乃安。進攻吉州、知州周天驥降、遂定贛・南安。広東経略徐直諒奉蝋書納其所部十四郡、前江西制置黄万石亦以邵武降。隆興帥府誣富民与敵連、已誅百三十家、恒還、審其非罪、尽釈之。宋丞相陳宜中及其大将張世傑立益王昰於閩中、郡県豪傑争起兵応之。恒遣将破呉浚兵於南豊。世傑遣都統張文虎与浚合兵十万、期必復建昌。恒復遣将敗之兜港。浚走従文天祥於瑞金、又破之、天祥走汀州。遣鎮撫孔遵追之、並破趙孟瀯軍、取汀州。元帥府罷、授昭勇大将軍・同知江西宣慰司事、加鎮国上将軍、遷福建宣慰使、改江西宣慰使。天祥復取汀州、兵出興国県、連破諸邑、囲贛州尤急。或言天祥墳墓在吉州者、若遣兵発之、則必下矣。恒曰『王師討不服耳、豈有発人墳墓之理』」
  7. ^ 『元史』巻129列伝16李恒伝,「乃分兵援贛、自率精兵潜至興国。天祥走、追至空坑、獲其妻女、擒招討使趙時賞已下二十餘人、降其衆二十万。有旨令与右丞阿里罕・左丞董文炳合兵追益王。衆議所向、皆謂宜趨福建、恒曰『不可。若諸軍倶在福建、彼必竄広東、則梅嶺・江西非我有矣、宜従広東夾攻之』。衆以為然。兵至梅嶺、果与宋兵遇、出其不意敗之、乃遁走碙洲。十四年、拜参知政事、行省江西。十五年、益王殂、其枢密張世傑・陸秀夫等復立衛王昺、守広東諸郡、詔以恒為蒙古漢軍都元帥経略之。恒進兵取英徳府・清遠県、敗其制置凌震・運使王道夫、遂入広州、世傑等移屯崖山。時都元帥張弘範舟師未至、恒按兵不動、分遣諸将略定梅・循諸州。凌震等復抵広州、恒撃敗之、皆棄舟走、赴水死、奪其船三百艘、擒将吏宋邁以下二百餘人、又破其餘軍於茭塘越。十六年二月、弘範至自漳州、直指崖山、恒率所部赴之。張世傑集海艦千餘艘、貫以巨索、為柵以自固。恒遣断其汲路、其勢日迫、諭降不可、乃陣於船尾、由北面逆行、搗其柵。索絶、世傑猶死戦、自朝至晡、弘範督南面諸軍合撃、大敗之。陸秀夫先沈妻子於海、乃抱衛王赴海死。従死者十餘万人。獲其金璽・後宮及文武之臣。其大将翟国秀・凌震等皆解甲降。焚溺之餘、尚得八百餘艘。是日、黒気如霧、有乗舟南遁者、恒以為衛王、追至高・化、詢之降人、始知衛王已死、遁者乃世傑也。世傑継亦溺死於海陵港。嶺海悉平、功成入覲、帝賞労甚厚、将士預賜宴者二百餘人」
  8. ^ 『元史』巻129列伝16李恒伝,「十七年、拜資善大夫・中書左丞、行省荊湖。掠民為奴婢者、禁之;常徳・澧・辰・沅・靖五郡之飢者、賑之;猟戸之籍於官者、奏請一千戸之外、悉放散之。十九年、乞解軍職、乃命其長子同知江西宣慰司事散木帯襲為本軍万戸。占城之役、恒奉旨給其糧餉器械・海艦百艘、久留瘴郷、冒疾而還。俄有詔命恒従皇子鎮南王征交趾、結筏渡海、奪天長府。交趾遂空其国、航海而遁。恒封其宮庭府庫、追襲於海洋、敗之、得船二百艘、幾獲其世子。会盛夏、軍中疾作、霖潦暴漲、浸濯営地。議者謂交趾且降、請班師、恒弗能奪、遂還。蛮兵追敗後軍、王乃改命恒殿後、且戦且行。毒矢貫恒膝、一卒負恒而趨。至思明州、毒発、卒、年五十。後贈銀青栄禄大夫・平章政事、諡武愍;再贈推忠靖遠功臣・太保・儀同三司、追封滕国公。子散木帯、江西行省平章政事;嚢加真、益都淄萊万戸;遜都台、同知湖南宣慰使司事。孫薛徹干、兵部侍郎;薛徹禿、益都般陽万戸」

参考文献

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