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杵築城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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杵築城
大分県
杵築城(模擬天守) (2010年1月7日撮影)
杵築城(模擬天守)
(2010年1月7日撮影)
別名 木付城、勝山城、臥牛城
城郭構造 連郭式平山城
天守構造 不明(1591年 築)
独立式望楼型3層3階(1970年 RC造 模擬)
築城主 木付頼直
築城年 明徳5年(1394年
主な城主 木付氏、前田氏、宮部氏、杉原氏
細川氏、小笠原氏、松平氏
廃城年 明治4年(1871年
遺構 土塁、堀切り(台山地区)
堀、石垣、庭園(藩主御殿地区)[1]
指定文化財 国の史跡
再建造物 模擬天守
位置 北緯33度24分53.09秒 東経131度37分39.6秒 / 北緯33.4147472度 東経131.627667度 / 33.4147472; 131.627667
地図
杵築城の位置(大分県内)
杵築城
杵築城
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杵築城(きつきじょう)は、大分県杵築市杵築にあった日本の城。城跡のうち麓の藩主御殿跡は大分県の史跡に指定されている[2][3][4]。また、城郭があった台山地区と藩主御殿地区は、国の史跡に指定されている[1][5][6][7]

概要

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台山上に建つ杵築城(模擬天守)

杵築城は、室町時代初期に木付氏によって八坂川の河口にある台山(だいやま)の上に築かれた。台山は、北は高山川、東は守江湾に囲まれた天然の要害である。連郭式平山城で、台山を空堀により4区画に区切られていた。

戦国時代には大友氏島津氏の戦い(豊薩合戦)の舞台となり、江戸時代には杵築藩藩庁が置かれた。

城跡のうち台山上の部分は、公園として整備され[8]、天守台跡に資料館と展望所を兼ねた模擬天守が建てられている[9]

また、公園の一角には東京法学社法政大学の前身)の創立に関わった金丸鉄伊藤修(いずれも杵築藩出身)のレリーフが刻まれた法政大学創立者顕彰碑が設置されている[10][11]

歴史

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木付氏は当初鴨川の竹ノ尾に城(竹ノ尾城)を構えたが、明徳5年(1394年)に、木付頼直が杵築城(当時は木付城)を築き、城を移した[12]

戦国時代島津氏の大軍に攻められるが、城主木付鎮直が籠城して抗戦の末これを退けた。しかし、後に主君の大友義統文禄の役での失態の責めを負って豊臣秀吉により改易されると、当主木付統直は自刃し木付氏も滅びた。

杵築を含む豊後国は豊臣家の蔵入地となって前田玄以宮部継潤が奉行を務めた後、慶長元年(1596年)に杉原長房の所領となる。同年の震災(慶長豊後地震)と、慶長2年(1597年)の暴風雨によって天守などが損壊したため[要出典]、長房は慶長2年(1597年)に台山北麓に居館を移した。慶長5年(1600年)2月には細川忠興の所領となり、重臣の有吉立行を城代として置いた。慶長6年(1601年)には松井康之が城代となっている[12]

天守は慶長13年(1608年)6月に落雷で焼失したが、その後、再建された。2017年(平成29年)に行われた調査では再建後の石垣が確認されている。また、文献の記録[注 1]から、再建天守は3重の層塔型であったと考えられている。慶長20年(1615年)に一国一城令が発せられると、台山の主郭部は破却され、城郭機能は台山北麓の居館(後の藩主御殿)に移された[12]

寛永9年(1632年)、忠興の子・忠利熊本藩に移封となると、替わって小笠原忠知が入った。正保2年(1645年)には松平英親能見氏)が豊後高田藩より3万2千石で封じられた[12]。能見氏のもとで平地への移転が完了し、台山の城郭は17世紀末までに廃止された。元禄7年(1694年)4月に杵築を訪れた貝原益軒は『豊国紀行』に「木付に城なし、町あり」と記している[13]

正徳2年(1712年)、幕府朱印状に「木付」と書くべきところが「杵築」と記されていたため、幕府に伺いを立てた上で「杵築」と表記するようになり[9]、従来、木付城と表記されていたこの城も、杵築城と表記されるようになった。

遺構

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台地上の台山地区には、城山公園が整備されている。本丸の天守台跡には3層の模擬天守が建てられ、資料館及び展望所として利用されている[9]。2017年(平成29年)に国の史跡指定を目指して行われた発掘調査では、土塁堀切が確認され[1]、大友氏による豊後国支配が終焉を迎えた文禄2年(1593年)から、慶長20年(1615年)の破却に至るまでの城郭の変遷が明らかとなった[12]

山麓の藩主御殿地区は、杵築神社、旧杵築中学校、旧杵築市立図書館一帯に位置しており、石垣庭園の遺構が残されている[1]。旧杵築中学校の校舎建て替えに伴い2010年(平成22年)から行われた発掘調査で、校庭から藩主御殿跡が発見され、2016年(平成28年)2月23日に県の史跡に指定された[2][4][13]

また、旧城内城鼻地区に旧船形屋敷が現存し、現在は民家として利用されている。[要出典]

脚注

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注釈

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  1. ^ 熊本大学附属図書館所蔵の松井文庫に『興長公 附録 書抜済』(「興長公」とは松井興長のこと)という文書があり、同文書中の「木付御城こわし申所付ノ帳」に慶長20年(1615年)の杵築城破却の状況が詳細に記録されている[12]

出典

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  1. ^ a b c d 文化審議会の答申(史跡等の指定等)について』(プレスリリース)文化庁、2019年11月15日https://www.bunka.go.jp/koho_hodo_oshirase/hodohappyo/1422552.html 
  2. ^ a b 杵築市杵築地域指定文化財一覧”. 杵築市 (2019年8月23日). 2019年11月19日閲覧。
  3. ^ 大分県指定文化財の指定及び大分県選定保存技術の選定について”. 大分県 (2016年2月23日). 2019年11月19日閲覧。
  4. ^ a b “県文化財 杵築城藩主御殿跡など9件指定 屋根檜皮作り・檜皮葺き初の「保存技術」/大分”. 毎日新聞. (2016年2月18日). https://mainichi.jp/articles/20160218/ddl/k44/040/395000c 
  5. ^ “「杵築城跡」国史跡指定へ 「鬼ノ岩屋・実相寺古墳群」は一部追加”. 大分合同新聞. (2019年11月16日). https://www.oita-press.co.jp/1010000000/2019/11/16/jd0058692810 
  6. ^ “文化審答申 杵築城跡、国史跡 県内42件目/大分”. 毎日新聞. (2019年11月16日). https://mainichi.jp/articles/20191116/ddl/k44/040/248000c 
  7. ^ 令和2年3月10日文部科学省告示第17号。
  8. ^ 城山公園”. 杵築市 (2019年10月31日). 2019年11月19日閲覧。
  9. ^ a b c 杵築城(木付城)”. 杵築市 (2018年10月2日). 2019年11月19日閲覧。
  10. ^ 城山公園/杵築市
  11. ^ 「HOSEI MUSEUM」Vol.100 創立者2人を介してつながった縁 大分県杵築市 - 法政大学
  12. ^ a b c d e f 杵築城跡(台山部分)の現地説明会を実施しました”. 杵築市 (2018年11月19日). 2019年11月19日閲覧。
  13. ^ a b 杵築城藩主御殿の発掘調査現地説明会とシンポジウムを行いました”. 杵築市 (2018年8月1日). 2019年11月19日閲覧。

関連項目

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