楢型駆逐艦
楢型駆逐艦 | |
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1918年、速力試験中の「桑」[1] | |
基本情報 | |
種別 | 二等駆逐艦[2] |
命名基準 | 植物の名 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
同型艦 | 6隻[2](#同型艦を参照) |
前級 | 桃型駆逐艦 |
次級 | 樅型駆逐艦 |
要目 (計画) | |
基準排水量 | 770トン[3] |
常備排水量 | 850トン[4][5] |
全長 | 290 ft 0 in (88.39 m)[4][注釈 1] |
垂線間長 | 275 ft 0 in (83.82 m)[5] |
最大幅 | 25 ft 4 in (7.72 m)[4][5][注釈 1] |
吃水 | 7 ft 10 in (2.39 m)[4][5][注釈 1] |
ボイラー | ロ号艦本式缶 重油専焼2基、石炭重油混焼2基[6] |
主機 | ブラウン・カーチス式単式直結タービン 2基[7] |
推進器 | 2軸[4] x 730rpm[8] |
出力 | 17,500馬力[4][5] |
速力 | 31.5ノット[4][5] |
航続距離 | 3,000カイリ / 14ノット[7] |
燃料 | 重油212トン、石炭98トン[4] |
乗員 | 竣工時定員 112名[9] |
兵装 |
45口径三年式12cm単装砲3門[4] 三年式機砲(6.5mm機銃) 2挺[4] 45cm3連装魚雷発射管2基6門[7] |
搭載艇 | 4隻[4] |
楢型駆逐艦(ならかたくちくかん)は、日本海軍の2等駆逐艦[2]。同型艦6隻[2]。
計画・建造
[編集]第一次世界大戦中に建造された桃型駆逐艦4隻は、竣工すると樺型駆逐艦の8隻に続いて地中海に派遣されることになった。 1917年(大正6年)5月21日、海軍大臣から内閣総理大臣に地中海派遣の代艦として駆逐艦6隻建造の請議を提出、その予算は翌22日に直裁を受けて建造が決まった[10]。予算額は大正6年度のみで1隻1,696,792円、総額10,180,752円、実際の支出は10,175,240円(円未満省略)だった[10]。建造は各海軍工廠4カ所で行い同年10月から11月に起工、翌1918年(大正7年)3月から4月に全艦竣工した[11]。竣工後の各桃型駆逐艦は、公試航海を経て、第二特務艦隊(第一次世界大戦地中海派遣連合国所属日本遠航艦隊)の後任を受けて、各種改良を施された楢型駆逐艦が国防の任務に就く事になった。その後第一次世界大戦五大国(国際連盟常任理事国戦勝五大列強国)に日本が加わる事に大きく貢献して、帰国した桃型駆逐艦と共に各種国防任務に就くことになった。連合国側で参戦していた第一次世界大戦中から建造が開始され、ドイツ帝国の敗戦を迎える1918年までに就役した楢型は、各艦が第二特務艦隊の派遣中留守となった日本近海や関東州周辺の国防任務で活躍し、ヴェルサイユ条約の締結を持って正式に戦勝国として迎えた第一次世界大戦終結までに国内海軍工廠で竣工した代表的な艦艇であり、特にジュネーブに置かれた国際連盟の常任理事国となった日本は、太平洋旧ドイツ帝国領には新たに委任統治領が設定され、日本統治担当地区になったサイパンやパラオなど内南洋地域を警備する駆逐艦艦級として広大な領海警備も担当し、大戦後好景気に沸く大正時代から昭和初期の日本海軍を支えた奉公艦となった。[1]
本級のネームシップである駆逐艦「楢」は、搭載された主力主砲である「12センチ45口径主砲」三基と「最大船速:31ノット」というバランスの良い性能にておいて使い勝手が良かったとされ、故障が少ない艦であったとされる同船は領海及び南洋地域の国防を全うし、雑役船や掃海艇としての任務に就いたのち退役した。暫しの係留の後、戦間期の昭和15年11月15日に船体寿命により廃船、公船としての除籍後は約90m程の船体を再利用する案が持ち上がり、日本国内で防波堤用資材として使用された。
艦型
[編集]基本計画番号は前型である桃型と同じF27[12]。船体に変更は無いが、地中海での使用実績から船体の各部を補強し、排水量が15トン増えた[13][14][注釈 2]。機関出力も増えているが、これは増加した排水量で桃型と同じ計画速力31.5ノットとするためで、機関に変更は無い[8]。その他の詳細は桃型駆逐艦#艦型を参照。
運用
[編集]大正末から昭和の初めにかけて中国方面へ警備のためしばしば進出している。これは二等駆逐艦は吃水が浅く長江河口付近の行動に便利なこと、また艦形小型による航続力、凌波性の不足が中国沿岸では問題にならないこと、からである。
同型艦
[編集]楢(なら)
[編集]- 1917年(大正6年)11月8日横須賀海軍工廠で起工[15]、1918年(大正7年)3月28日午後3時30分進水[16]、同年4月30日竣工[17]。
- 1930年(昭和5年)6月1日、掃海艇に転籍、第九掃海艇となる。1936年(昭和11年)4月1日雑役船「楢」となる。1940年(昭和15年)11月15日除籍。その後解体。
桑(くわ)
[編集]- 1917年11月5日呉海軍工廠で起工[18]、1918年2月23日午前9時32分進水[19]、3月31日竣工[20]。
- 1933年(昭和8年)9月1日除籍。1936年8月15日、台風での浸水により沈没、のちに解体。
椿(つばき)
[編集]- 1917年11月5日呉海軍工廠で起工[18]、1918年2月23日午前9時32分進水[19]、4月30日竣工[21][注釈 3]
- 1935年(昭和10年)4月1日除籍。海軍機関学校の教材となる。終戦時船体は呉の浮き防波堤。
槇(まき)
[編集]欅(けやき)
[編集]榎(えのき)
[編集]- 1917年10月1日舞鶴海軍工廠で起工[3][11]、1918年3月5日午後3時進水[26]、4月29日竣工[21][注釈 5]
- 1930年6月1日、掃海艇に転籍、第十掃海艇となる。1940年除籍、呉の魚雷実験部の防波堤として終戦を迎える。
駆逐隊・掃海隊の変遷
[編集]楢型は6隻からなり、うち4隻は1個駆逐隊を編成した。楢・榎は一等駆逐艦の海風型駆逐艦2隻と第二駆逐隊を編成。二駆は混成駆逐隊となった。二駆については第二駆逐隊の項を参照。
第二駆逐隊→第三十二駆逐隊→第一十七駆逐隊→第六掃海隊
[編集]横須賀鎮守府籍の楢・榎で編成した。編成日は両艦の竣工日である。前日まで第二駆逐隊を編成していた一等駆逐艦海風・山風は、楢・榎と交代する形でいったん駆逐隊から離れた。しかし、同年8月1日に二駆へ復帰し、2等級2形式の混成駆逐隊となり、昭和11年の除籍までこのメンバーとなる。大正7年11月に舞鶴鎮守府へ転出して二代目第三十二駆逐隊となる。舞鶴鎮守府廃止に伴い、大正11年に呉鎮守府へ転出し、二代目第十七駆逐隊となる。昭和5年に駆逐艦より掃海艇に転じたため、4隻ともそろって第六掃海隊に転じた。楢・榎と交代するまでの海風型駆逐艦からなる駆逐隊の変遷いついては海風型駆逐艦#駆逐隊・掃海隊の変遷を参照。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の戦歴は各艦の項目を参照。
- 明治45年6月25日 竣工済みの海風・山風で編成。横須賀水雷団に所属。
- 大正7年4月30日 海風・山風離脱。二駆は同日に竣工した楢・榎が継承。横須賀鎮守府予備艦。
- 大正7年8月1日 海風・山風復帰。以後、海風・山風・楢・榎の混成隊として存続。
- 大正7年11月2日 舞鶴鎮守府に転出、第三十二駆逐隊(二代)に改称。
- 大正7年12月1日 第一艦隊第一水雷戦隊。
- 大正9年12月1日 舞鶴鎮守府予備艦。
- 大正11年12月1日 舞鶴鎮守府廃止に伴い、呉鎮守府に転出。第十七駆逐隊(二代)に改称。呉鎮守府予備艦。
- 大正12年12月1日 舞鶴要港部に派遣。
- 大正14年12月1日 呉鎮守府予備艦。
- 大正15年12月1日 鎮海要港部に派遣。
- 昭和2年12月1日 舞鶴要港部に派遣。
- 昭和3年8月1日 鎮海要港部に派遣。
- 昭和3年12月10日 呉鎮守府予備艦。
- 昭和5年6月1日 全艦、掃海艇に類別変更。第一七駆逐隊を解隊し、第六掃海隊を編成。第七号(旧海風)・第八号(旧山風)・第九号(旧楢)・第一〇号(旧榎)
- 昭和11年4月1日 第六掃海隊解隊。第七号・第八号は除籍、第九号・第一〇号は雑役船編入。
第四駆逐隊→第九駆逐隊
[編集]横須賀鎮守府籍の桑・槙・欅・椿で編成。春雨型駆逐艦からなる先代が大正7年4月1日に第7駆逐隊にスライドして以来の三代目第四駆逐隊となった。大正11年12月1日、これまで飛び番だった峯風型駆逐艦の駆逐隊を第一〜第四にそろえるため、峯風型五駆に番号を譲る。同日、神風型駆逐艦からなる先代第九駆逐隊が呉鎮守府に転出し、第十一駆逐隊に改称したことを受けて、三代目の第九駆逐隊となった。後半は中国大陸駐留が長い。所属部隊と所属駆逐艦の変遷は以下のとおり。各艦の艦歴は各艦の項目を参照。
- 1918年(大正7年)4月25日:桑、槙、欅で編成。横須賀鎮守府予備艦。
- 1918年(大正7年)4月30日:竣工した椿を編入。編成完結。
- 1918年(大正7年)12月1日:第一艦隊第一水雷戦隊。
- 1920年(大正9年)12月1日:大湊要港部に派遣。
- 1922年(大正11年)12月1日:第九駆逐隊に改称。
- 1924年(大正13年)12月1日:横須賀鎮守府予備艦。
- 1925年(大正14年)12月1日:舞鶴要港部に派遣。
- 1927年(昭和2年)12月1日:第二遣外艦隊。
- 1931年(昭和6年)12月1日:横須賀鎮守府予備艦。
- 1933年(昭和8年)9月1日:桑、欅除籍。
- 1934年(昭和9年)4月1日:槙の除籍を機に解隊。椿は横須賀鎮守府予備艦となる。
- (1935年(昭和10年)4月1日:椿除籍。)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b c #昭和造船史1pp.788-789、6.駆逐艦及び水雷艇要目表では桃型と同じ水線長85.85m、垂線間長83.82m、最大幅7.74m、公試状態吃水2.36mとしている。また#日本駆逐艦史1992p.52では全長85.9mとしている。
- ^ #帝国海軍機関史下巻p.560(四七〇頁)では、船体の長さを15フィート(約4.57m)増して排水量が15トン増えた、としている。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.275では4月29日竣工となっている。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.275では12月18日進水となっている。
- ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.275では4月30日竣工となっている。
出典
[編集]- ^ #日本駆逐艦史1992p.53
- ^ a b c d #海軍制度沿革8(1971)pp.88-92『大正十五年十一月二十九日(内令二三八) 艦艇類別等級別表ノ通定ム(別表省略)』| 驅逐艦 | 二等 | 楢型 | 楢、桑、椿、槇、欅、榎 |
- ^ a b c #海軍制度沿革11-2(1972)pp.1072-1073、昭和3年2月14日(内令43)、艦船要目公表範囲。
- ^ a b c d e f g h i j k #戦史叢書31海軍軍戦備1付表第一その二「大正九年三月調艦艇要目等一覧表 その二 駆逐艦」
- ^ a b c d e f #横須賀海軍工廠史3p.13。ただし楢の値として。
- ^ #帝国海軍機関史別冊表20、(第一一表)
- ^ a b c #昭和造船史1pp.788-789、6.駆逐艦及び水雷艇要目表
- ^ a b #帝国海軍機関史下巻p.560(四七〇頁)
- ^ #海軍制度沿革10-1(1972)pp.570-571『大正六年十二月二十八日(内令三二三) 海軍定員令中ノ通改正セラル 驅逐艦定員表其二ヲ附表ノ通改ム(附表略)』槇を追加、將校、機關將校6人、特務士官、准士官3人、下士24人、卒79人。
- ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1p.274
- ^ a b c #戦史叢書31海軍軍戦備1p.275
- ^ #日本駆逐艦物語p.294
- ^ #海軍造船技術概要p.392
- ^ #堀駆逐艦1969p.131
- ^ #T7公文備考20艦船1/駆逐艦楢、榎、槙、欅、桑、椿製造画像36『横廠工第五四三號ノ一一 大正六年十一月三十日 横須賀海軍工廠長田中盛秀(中略)官房機密第一三三六號訓令ノ驅逐艦楢ハ十一月八日午前十時「キール」据付ヲ了セリ 右報告ス(終)』
- ^ #T7公文備考20艦船1/駆逐艦楢、榎、槙、欅、桑、椿製造画像81『大正七年三月二十八日(中略)楢本日午後三時三十分無事進水セリ 右報告ス(終)』
- ^ #T7公文備考20艦船1/駆逐艦楢、榎、槙、欅、桑、椿製造画像43『艦政船第二三一號(中略)楢竣成ニ付本日楢駆逐艦長ニ引渡ヲ了ス 大正七年四月三十日 横須賀工廠長』
- ^ a b #T7公文備考20艦船1/駆逐艦浦風、江風、製造(1)画像8『大正六年十一月六日 呉海軍工廠長 伊藤乙次?(中略)官房機密第一三三六號ノ二訓令ニ依リ當廠ニ於テ建造スヘキ驅逐艦桑椿ハ本月五日午後二時二十分起工致候 右報告ス(終)』
- ^ a b #T7公文備考22艦船3/引渡、授受画像38『大正七年二月廿三日(中略)桑、椿、二十三日午前九時三十二分無事進水セリ(了)』
- ^ #T7公文備考20艦船1/駆逐艦浦風、江風、製造(1)画像27『桑本日同艦長ニ引渡結了 三月三十一日 呉鎮長官』
- ^ a b #T7公文備考20艦船1/駆逐艦浦風、江風、製造(1)画像6『榎引渡結了 四月二十九日 舞鎮長官 椿竣工本日授受結了 四月三十日 呉鎮長官』
- ^ a b #T7公文備考20艦船1/駆逐艦楢、榎、槙、欅、桑、椿製造画像69『大正六年十月十九日 佐世保海軍工廠長山口九十郎 海軍大臣加藤友三郎殿 驅逐艦起工ノ件 驅逐艦槇及欅大正六年十月十六日起工 右報告ス(了)』
- ^ #T7公文備考20艦船1/駆逐艦楢、榎、槙、欅、桑、椿製造画像82『驅逐艦槇本日無事進水 佐世保工廠長 十二月二十八日』
- ^ #T7公文備考20艦船1/駆逐艦楢、榎、槙、欅、桑、椿製造画像68『槇本日授受結了 四月七日 佐鎮司令長官』
- ^ #T7公文備考20艦船1/駆逐艦浦風、江風、製造(1)画像7『欅午前十時十分無事進水ス 一月十五日 佐世保鎮守府司令長官』
- ^ #T7公文備考20艦船1/駆逐艦楢、榎、槙、欅、桑、椿製造画像80『大臣宛駆逐艦榎本日午後三時無事進水結了 三月五日 舞鎮長官』
参考文献
[編集]- 『海軍制度沿革 巻四(一)』原書房、1971年。
- 海軍省/編 編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。
- 海軍省/編 編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。
- 海軍省/編 編『海軍制度沿革 巻十一の2』 明治百年史叢書 第185巻、原書房、1972年5月(原著1941年)。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
- 『世界の艦船増刊第34集 日本駆逐艦史』、海人社、1992年7月。
- 堀元美『駆逐艦 その技術的回顧』原書房、1969年。ISBN 4-562-01873-9。
- (社)日本造船学会/編 編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2。
- 日本舶用機関史編集委員会/編 編『帝国海軍機関史』 明治百年史叢書 第245巻、原書房、1975年11月。
- 福井静夫『福井静夫著作集第5巻 日本駆逐艦物語』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0611-6
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 牧野茂、福井静夫/編 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4。
- 横須賀海軍工廠/編 編『横須賀海軍工廠史(3)』 明治百年史叢書 第331巻、原書房、1983年8月(原著1935年)。ISBN 4-562-01380-X。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『大正7年 公文備考 巻20 艦船1/駆逐艦楢、榎、槙、欅、桑、椿製造』。Ref.C08021104300。
- 『大正7年 公文備考 巻20 艦船1/駆逐艦浦風、江風、製造(1)』。Ref.C08021104400。
- 『大正7年 公文備考 巻22 艦船3/引渡、授受』。Ref.C08021108200。