洲崎球場
洲崎球場 | |
---|---|
施設データ | |
所在地 | 東京都江東区新砂一丁目[1] |
座標 | 北緯35度40分05.4秒 東経139度49分19.1秒 / 北緯35.668167度 東経139.821972度座標: 北緯35度40分05.4秒 東経139度49分19.1秒 / 北緯35.668167度 東経139.821972度 |
起工 | 1936年8月24日 |
開場 | 1936年10月14日[2] |
グラウンド | 土(外野)、土(内野) |
使用チーム • 開催試合 | |
収容人員 | |
グラウンドデータ | |
洲崎球場(すさききゅうじょう、「洲崎大東京球場」とも)は、かつて東京府東京市城東区(現在の東京都江東区新砂一丁目付近)に所在した木造の[3]野球場。
概要
[編集]日本プロ野球草創期、東京では上井草球場に次ぐ2番目のプロ野球専用球場であった。大東京軍の本拠地として建設されたが[4]、実際は当時フランチャイズ制が敷かれていなかったこともあり、東京巨人軍も試合を開催していた。
大東京軍の球団常務だった鈴木龍二(戦後、セントラル・リーグ会長)の回顧録によると、もとは東京瓦斯の所有地であったという[5]。
1936年10月13日[6]に3ヶ月の突貫工事で完成し、翌1937年には92試合が開催された。しかし、海のすぐそばに建設された洲崎球場は、カニが這いずり回っていたといわれ、満潮時にはグラウンドが海水に浸かってコールドゲームになることもしばしばあった[7]。そのため、後楽園球場が開場した翌1938年は試合数が激減し、わずか3試合にとどまった。1943年頃に解体され、跡地には民間企業の社屋が建てられている。
洲崎球場で行われた試合の中では、1936年の巨人対タイガースの沢村栄治、景浦将が出場した優勝決定戦は語り草になっている[注釈 1][8]。また、1937年7月17日のイーグルス対金鯱戦は観客が僅か90人だったといわれ、プロ野球史のワースト記録とされる。ただし、この日付で開催された試合はイーグルス対大東京戦(ダブルヘッダー)であり、信ぴょう性のある話とは言えない。[要出典]
“打撃の神様”と呼ばれた川上哲治(巨人)のプロデビュー戦もこの球場であった。
近くに洲崎遊郭(洲崎パラダイス)があり、選手も試合後などによく通っていたと言われる。[要出典]
2015年、数少ない資料を基にして球場の200分の1スケールの模型が作られ、江東区役所で公開されている[9]。
所在地
[編集]プロ野球草創期を記録・回想する多くの文章に登場する球場であるが、あまりにも周囲が変貌したため、正確な所在地の特定は長らく困難とされていた。雑誌『野球小僧』の企画によって文献などの調査が行われ、大体の位置が判明した。2005年2月に、江東区役所が江東区新砂一丁目2番8号付近に記念碑を建てた。
- 埋め立て地にあったとされている。
- 当時書かれたいくつかの文章で、市電(都電)に乗って見に行ったとの記述が見られる。判明した所在地から推測すると、最寄り停留場は市電と城東電軌の東陽公園前電停(1972年廃止、現在の東京メトロ東西線東陽町駅付近)であり、市電と城東電軌の洲崎電停からは若干距離があった。
- 鈴木龍二によると、大東京軍は深川不動尊の脇に合宿所を借りており、本球場で試合が終わると洲崎電停からユニフォームのまま市電に乗って帰っていたという[10]。
- 野球評論家の越智正典は著筆の中で「門前仲町から現在の東西線木場駅の先まで歩き、左手に汽車工場(平岡工場東京製作所)が見え始めるとその手前を右に折れ、運河に架かる橋を渡ると、ようやくそこが洲崎球場であった」と記している。平岡工場は1901年に汽車製造と合併してその東京支店となり、場所も1931年に当初の地から洲崎近くに移転していたが、「平岡工場」の名前が通称として残っていたものと思われる。
- 近所に洲崎遊廓があったことが有名であり、隣接地にあったと誤解されがちであるが、実際には幾分離れた場所にあった。なお、大下弘への追悼文で「選手達が球場入りするとき、彼が遊廓の二階から手を振っているのが見えた。洲崎球場は便利であった」との記述がされているが、大下のプロ入りは戦後であり、時代考証からいっても筆者の勘違いと思われる。
- 跡地には現在、水処理装置メーカーのオルガノの本社が所在する[11]。
参考文献
[編集]- あの頃こんな球場があった - 佐野正幸著、草思社、2006年
- 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。
- 洲崎球場のポール際 プロ野球の聖地に輝いた一瞬の光 - 森田創著、講談社 2014年
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “洲崎球場跡”. 江東区. 2018年9月17日閲覧。
- ^ “鳴海&洲崎球場”. 東京中日スポーツ (2016年1月27日). 2018年9月17日閲覧。
- ^ 巨人が初V決めた幻の球場、会社員が模型で再現 YOMIURI ONLINE(読売新聞 2013年12月2日 夕刊14面)
- ^ 20世紀遺跡:近現代史をめぐる/32止 東京・洲崎球場跡 毎日新聞 2013年3月20日 東京朝刊
- ^ 鈴木龍二『プロ野球と共に五十年(上)』恒文社、1984年、P39 - 40。
- ^ 大修館書店刊「近代体育スポーツ年表1800-1907」164
- ^ 一例として、1938年3月15日の巨人対名古屋金鯱軍ダブルヘッダー第二試合が満潮のためにコールドゲームとなっている。出典:大修館書店刊「近代体育スポーツ年表1800-1907」164ページ
- ^ 『幻の“日本シリーズ”~フィルムからよみがえる選手たち~』 NHK総合『クローズアップ現代』2015年6月11日放送
- ^ 江東区役所に「洲崎球場」の模型展示 「幻の球場」を200分の1で復元
- ^ 『プロ野球と共に五十年(上)』P43。
- ^ “テレビ朝日『じゅん散歩』2016年6月16日放送より。”. TVでた蔵. 株式会社ワイヤーアクション (2016年6月16日). 2016年6月16日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]前本拠地: n/a - |
ライオン軍の本拠地 1936 - 1937 |
次本拠地: (フランチャイズ未導入) 1938 - 1947 |