滝本誠一
滝本 誠一 | |
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生誕 |
1857年11月13日 日本、武蔵国 |
死没 |
1932年8月20日(74歳没) 日本、東京都 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 経済思想史 |
研究機関 | 慶應義塾大学、立教大学、京都帝国大学法科大学、東京商科大学、同志社大学 |
出身校 | 慶應義塾 |
主な業績 | 重商主義、日本経済史 |
主な受賞歴 |
法学博士(1918年) 帝国学士院・故桂太郎公爵記念賞(1918年) |
プロジェクト:人物伝 |
滝本 誠一(たきもと せいいち、1857年11月13日(安政4年9月27日) - 1932年(昭和7年)8月20日)は、宇和島藩出身の経済学者、経済思想史家、官吏、農政家、経世論提唱者[1]。経済史研究の開拓者の一人であり、日本経済史を始めヨーロッパ経済史、経済学史などの研究も行なった[1]。特に江戸時代の経済思想史の先覚者として、山川均を始めとする労農派の思想に大きな影響を与えた。
経歴
[編集]江戸の宇和島藩邸に生まれ、藩校及び宇和島郡立不棄学校において中上川彦次郎、渡辺恒吉などに学び、のち1881年(明治14年)に慶應義塾を卒業して、紀州藩の藩校の後身校・和歌山市自修学校(徳修学校)に英語教師として赴任[1]。
のち星亨の経営した『東京公論』などで主筆を務め、『神戸又新日報』・『東京朝日新聞』・『朝野新聞』などの記者に転じ、1898年(明治31年)に雑誌『明義』を発刊。印刷所経営などを経たのち、1904年(明治37年)から1914年(大正3年)にかけて千葉県で開墾事業に従事する[1]。
1911年(明治44年)に京都帝国大学法科大学の嘱託として赴任し、1914年(大正3年)に同志社大学教授に就任[1]。江戸時代の学者の経済学体系を集成した『日本経済叢書』を編纂する。翌年に大蔵省嘱託となり、1918年(大正7年)に博士会の推薦によって法学博士の学位を受ける。同志社では、学長原田助排斥運動に巻き込まれ、翌1919年(大正8年)同大教授を退く[2]。
同1919年(大正8年)に慶應義塾大学部に招かれて講師となり、翌1920年(大正9年)に同大学理財科(現・経済学部)教授となり、亡くなるまで経済史、経済思想史を講じた[1]。この間、東京商科大学(現・一橋大学)教授、立教大学教授[3]、専修大学の講師などを兼ねた[1]。
社会経済史学会評議員なども務めた。
年表
[編集]- 1857年 伊予宇和島藩伊達屋敷生まれ。
- 1874年 愛媛県宇和島郡立不棄学校入学。
- 1881年 慶應義塾卒業。
- 1889年 朝野新聞社入社。
- 1911年 京都帝国大学法科大学嘱託。
- 1914年 同志社大学教授。
- 1915年 大蔵省嘱託。
- 1918年 法学博士。帝国学士院にて故桂公爵記念賞を受ける。
- 1919年 同志社大学教授辞任。
- 1920年 慶應義塾大学部理財科(現・経済学部)教授。
- 1929年 慶應義塾大学文学部教授兼任。
著書
[編集]人物
[編集]- 慶應の教授時代、純粋の慶應義塾出身でないことから、自ら教授会には出席しなかった。試験にノート、参考書持参を許したため、生徒に喜ばれ、ゼミ生はすこぶる多かった[4]。
- 兼務した立教大学が余程好きだったようで、『立教は気持ちがええよ、慶應の教授室など、入っても腰を下す気もせんが、そこへいくと立教はどことなく、和やかなとこがあって、面白い』とよく語った。しかし、教授陣の顔ぶれや担当科目のことになると、学材行政の方面には関係がなく、どちらかと言えば客分扱いであったにも関わらず、大学の発展や教授の問題などにとても熱心であった[3]。
参考文献
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」 『滝本誠一』 ‐ コトバンク
- ^ 同志社の革命期 大学部の重鎮滝本博士去って吉野作造博士新に講壇に立つ 栄ある校史を汚す勿れ京都日出新聞 1919.8.14 (大正8)
- ^ a b 『立教大学新聞 115号』 昭和7年9月22日
- ^ 大学教授室 (99)慶応義塾大学 (一)時事新報 1932.4.30-1932.5.27 (昭和7)
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 幕末維新の経済史観滝本誠一 新愛知 1921.12.18-1922.2.6 (大正10)