竹内啓一
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竹内 啓一(たけうち けいいち、1932年12月7日 - 2005年6月25日)は、日本の地理学者。一橋大学名誉教授。専門は人文地理学、社会経済地理学。おもな研究テーマは地中海地域研究、地理思想史。日本地理学会会長、経済地理学会会長等を歴任。
経歴
[編集]- 神奈川県高座郡茅ヶ崎町(現・茅ヶ崎市)に生まれる[1]。地元の国民学校を終えた後、父が小松製作所に再入社したため一時石川県小松市に移り、旧制石川県立小松中学校から新制石川県立小松高等学校への移行期を小松で迎えたが、高校の途中で茅ヶ崎に戻り、神奈川県立湘南高等学校を卒業した[1]。
- 1951年、東京大学理科二類に入学。当初は医学に関心をもつ[1]も、理学部地理学科に進学し、人文地理学を学ぶ。ソ連への関心から、文献を読むために本格的に露語を学び始める[1]。1956年に卒業し、大学院に進学。当時の指導教官は小堀巌であった。学部在学時に中学校一級(現中学校1種免許状)、高等学校二級(高等学校1級免許状)の教育職員免許状を取得しており修士課程在学中に東京都立豊多摩高等学校で時間講師を行った[1]。留学が困難だったソ連への渡航を断念し、イタリア留学を目指して伊語を学び始める。修士論文のテーマはソ連の乾燥地域の地誌であった[1]。
- 1959年に修士課程を修了し、博士課程に進学。イタリア政府給費留学生として、半年後にイタリアに渡り、ミラノ大学文学部に学ぶ[1]。当初予定された一年足らずの留学期間が終わった後も現地に留まりイタリア中亜極東研究所勤務を経て、1962年、当時の財団法人国際文化振興会(後の国際交流基金)に現地採用となる[1]。これはローマ日本文化会館の立ち上げの時期に当たっていた。
- 1964年、国際地理学会議ロンドン大会で、石田龍次郎から一橋大学への就職を打診される[1]。その後、1965年までローマ日本文化会館に勤務し、帰国。
- 1966年、一橋大学社会学部専任講師に着任。1967年助教授、1974年教授と昇進し、1983年 - 1985年には社会学部長も務めた[1]。
- 1973年、中村喜和、渡辺金一とともに一橋大学地中海研究会を創設[2]。
- 1988年から3年間、外務省に出向し、在イタリア日本大使館文化担当公使としてローマ日本文化会館館長を務める[1]。1991年に一橋大学に復職し、1994年に一橋大学を定年退職。同年、駒澤大学文学部に移り、こちらも2003年の定年まで務めた[1]。
- 学界では、豊富な語学力を活かして海外、特にヨーロッパの研究潮流を、多数の書評や翻訳などを通して日本に紹介するとともに、日本の地理学の歴史や研究動向を海外に紹介し続けた。客員として海外の大学で教育や研究にあたることも多く(アイルランド国立大学ゴールウェイ校、ボッコーニ商科大学、インドネシア大学、パリ第7大学、東北師範大学、シェフィールド大学)、現地調査や研究集会のために海外へ出かける機会も多かった。
- 学会の役職としては、大学紛争期のまっただ中であった時期(1969年 - 1971年)に経済地理学会の実務上の責任者である代表幹事を務めるなど、実務面での手腕も優れ[3]、特に、駒澤大学へ移ってからは、日本地理学会会長(1994年 - 1996年)、経済地理学会会長(1994年 - 2000年)、日本島嶼学会会長(2002年 - 2005年逝去まで)などの要職を歴任した。
- 中等教育との関係では、岩波ジュニア新書の『世界各国地理』を執筆したほか、1972年以降、中等教育における地理教科書の編集に長く関わり、日本書籍の中学社会科教科書の地理分野の執筆には2003年まで、教育出版の高等学校地理教科書の編集には死去するまでたずさわっていた[4]。
- 墓所は多磨霊園。
人物
[編集]- 父、竹内強一郎(1894年 - 1989年)は、電気工学が専門で、横浜高等工業学校(横浜国立大学の前身の一つ)教授を務めた[5]。
- 祖父(強一郎の父)、竹内明太郎(1860年 - 1928年)は、土佐藩出身で、高名な曾祖父の竹内綱(明太郎の父)とともに自由民権運動に関わったあと、実業家として成功し、政治家としても活躍した[6](吉田茂は綱の庶子で明太郎の異母末弟。啓一は吉田の従孫(甥の息子)に当たる。元首相の麻生太郎ははとこに当たる[要出典])。
- 英独仏伊露の各国語に通じており地質学者の小林貞一によるロシア語文献解読の手伝いもしている[7]。
- 留学中に知り合ったイタリア人の夫人との間に二女をもうけた[1]。
- 指導学生に一橋大学名誉教授 水岡不二雄や[8]、九州大学名誉教授 山本健兒、お茶の水女子大学教授 熊谷圭知[9]、一橋大教授 上田元[10]、元神奈川大学日本常民文化研究所長 香月洋一郎[11]などがいる。
主な著作
[編集]単著
[編集]- 『世界各国地理: データブック』岩波ジュニア新書、初版1987年 ISBN 978-4005001255、第3版2004年 ISBN 978-4005004843
- 『とぽろうぐ: 地理学雑記帖』古今書院、1993年 ISBN 978-4772218344
- 『地域問題の形成と展開: 南イタリア研究』大明堂、1998年 ISBN 978-4470560288
- 『伝統と革新: 私が読んだ99の地理学』古今書院、2003年 ISBN 978-4772250702
- 『Modern Japanese Geography: An Intellectual History』古今書院、2003年 ISBN 978-4772214148
訳書
[編集]- ポール・クラヴァル『現代地理学の論理: その学説史的展望』大明堂、1975年 ISBN 978-4470420049
- ダヴィド・ハーヴェイ『都市と社会的不平等』(松本正美と共訳)日本ブリタニカ、1980年
- D.M.スミス『不平等の地理学: みどりこきはいずこ』(監訳)古今書院、1985年 ISBN 978-4772213646
- ジャクリン・バージェス、ジョン・R・ゴールド『メディア空間文化論: メディアと大衆文化の地理学』(監訳)古今書院、1992年 ISBN 978-4772214384
- ロン・J.ジョンストン『場所をめぐる問題: 人文地理学の再構築のために』(監訳)古今書院、2002年 ISBN 978-4772270007
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m “竹内先生経歴”. 一橋大学地中海研究会. 2010年10月18日閲覧。
- ^ 大月康弘「国立桜の歩道にて」竹内啓一先生追悼集
- ^ 竹内啓一先生追悼集 矢田俊文 130頁
- ^ “著作目録”. 一橋大学地中海研究会. 2012年9月9日閲覧。
- ^ 歴史が眠る多磨霊園 - 竹内強一郎
- ^ “竹内明太郎”. 歴史が眠る多磨霊園. 2010年10月18日閲覧。
- ^ 小池一之 (2005年). “竹内啓一先生を偲んで”. 駒澤大学. 2010年10月18日閲覧。
- ^ 「昭和56年 学位授与・単位修得論文一」一橋研究
- ^ 「昭和55年度 学位授与・単位修得論文一覧」一橋研究
- ^ 「昭和61年度 博士課程単位修得論文・修士論文一覧」
- ^ 「竹内啓一先生追悼集」一橋大学経済学研究科
参考文献
[編集]- 竹内啓一先生追悼集編集委員会編『竹内啓一先生追悼集: 地理学と国際文化交流とのあいだで』2006年
- 山本健兒「竹内啓一先生の逝去を悼む」『経済地理学年報』第51巻第3号、経済地理学会、2005年、275-277頁、doi:10.20592/jaeg.51.3_275、ISSN 0004-5683、NAID 110007652436。
- Avila Tàpies, Rosalia. Keiichi Takeuchi. Modern Japanese: An Intellectual History.[1] Biblio 3W, Revista Bibliográfica de Geografía y Ciencias Sociales, Universidad de Barcelona, Vol. IX, nº 522, 15 de julio de 2004. [2]. ISSN 1138-9796.
- Avila Tàpies, Rosalia. Keiichi Takeuchi (1932-2005): Biografía y obra de un geógrafo.[3] Biblio 3W, Revista Bibliográfica de Geografía y Ciencias Sociales, Universidad de Barcelona, Vol. X, nº 617, 30 de noviembre de 2005. [4]. ISSN 1138-9796.
外部リンク
[編集]- 高橋健太郎, 山口太郎, 鈴木重幾, 鈴木重幾, 瀬戸寿一「竹内啓一先生の教材--旅の地理学」『駒沢地理』第43号、駒澤大学文学部地理学教室・駒澤大学総合教育研究部自然科学部門、2007年3月、59-96頁、ISSN 0454241X、NAID 120006616505。
- 高橋健太郎, 鈴木重幾, 瀬戸寿一「竹内啓一先生の教材 (2) : 人文地理学概論・前篇」『駒澤地理』第44号、駒澤大学文学部地理学教室・駒澤大学総合教育研究部自然科学部門、2008年3月、43-74頁、NAID 120006616708。
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