竹谷源太郎
竹谷 源太郎 たけや げんたろう | |
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生年月日 | 1901年2月14日 |
出生地 | 日本 宮城県伊具郡角田町 |
没年月日 | 1978年9月12日(77歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部法律学科卒業 |
所属政党 |
(宮城地方党→) (日本社会党→) (右派社会党→) (日本社会党→) 民主社会党 |
選挙区 |
(宮城県全県区→) 宮城県第1区 |
当選回数 | 7回 |
在任期間 |
1946年 - 1949年 1952年 - 1960年 1963年 - 1967年 |
竹谷 源太郎(たけや げんたろう、1901年(明治34年)2月14日[1] - 1978年(昭和53年)9月12日[2])は、日本の政治家、内務官僚、弁護士。衆議院議員。
経歴
[編集]宮城県伊具郡角田町(現角田市)で呉服商・竹谷源平、いち夫妻の長男として生まれる[3]。1918年、宮城県立角田中学校を卒業し、東京高等商業学校に入学したが、体操教官(陸軍中佐)の態度に反発し退学[3]。同年、第一高等学校に編入し、1924年、東京帝国大学法学部法律学科(仏法)を卒業[1][2][3]。卒業後はアメリカ合衆国でデパートメント・ストアの研究を希望していたが、友人が相談もなく手続きをした高等試験行政科試験を受けて1924年11月に合格[3][4]。同年、内務省に入省し静岡県属となる[4]。
その後、北海道庁事務官に転じ、タコ部屋労働の廃止に取組み、貧窮者対象の社会事業協会附属病院の設立などに尽力[3]。その後、富山県書記官・警察部長、山口県書記官・警察部長、福岡県書記官・経済部長、兵庫県書記官・警察部長などを歴任し[1][2][3]、1942年7月7日、陸軍司政長官に発令され[5]、ジャワ島へ赴任が予定されていたが、健康診断の結果、内地勤務となり陸軍省軍務局に配属された[3]。その後、千葉県内政部長、新潟県内政部長を務め、1945年に退官した[2][4]。
その後、帰郷して同志と宮城地方党を組織し、1946年4月、第22回衆議院議員総選挙で宮城全県区から出馬し当選[2][3]。社会主義の実現のため日本社会党に入党を希望したが、当初、旧内務官僚との理由で拒否されたが、片山哲、西尾末広の紹介により同年7月に入党が認められた[3]。その後、第23回、第25回から第28回、第30回総選挙で当選し、衆議院議員を通算七期務めた[2]。この間、国土開発縦貫自動車道建設法の制定の推進、所得三倍論の提唱などを行い、国土総合開発審議会委員、裁判官訴追委員、衆議院運輸委員長、日本社会党中央執行委員、同統制委員、同国土開発特別委員長、民主社会党中央執行委員、同財務委員長、民社党顧問などを務めた[1][2][3]。
1960年、社会党の経済面の自由だけでなく、完全な自由平等の獲得のため民主社会党の結党に参加した[3]。
人物
[編集]『婦人世界』に掲載されたミツバチの記事を読んで興味を持ち、ミツバチを取り寄せて小学校5年生から中学校を卒業するまで寝起きを共にして観察した結果、ミツバチの世界が思想、行動など全てにおいて完全なる自由が存在すると認識し、人間の社会もこのようなものでありたいと願望し、その後の人生を歩んだ[3]。
著作
[編集]- 『考査試験提要』松華堂書店、1926年。
- 『監獄部屋廃止論』北海道庁学務部社会課、1931年。
- 『公営選挙法概説』日本産業新聞社、1948年。
- 『市町村議会議員必携』増訂、酣灯社、1951年。
- 『新党員獲得に関する20章』日本社会新聞出版部、1959年。
- 『所得3倍論 : 昭和45年の日本経済』日本経済構造研究会、1960年。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 細川隆元『現代の政治家 : 政界のホープ五十人』雪華社、1960年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。ISBN 9784816918056
議会 | ||
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衆議院運輸委員長 1954年 - 1955年 |
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