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耀州 (陝西省)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

耀州(ようしゅう)は、中国にかつて存在した末から民国初年にかけて、現在の陝西省銅川市および咸陽市東部に設置された。

概要

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906年天祐3年)、李茂貞により華原県に耀州が置かれた[1]温韜が耀州刺史とされた。朱全忠が李茂貞を鳳翔で包囲すると、温韜は耀州ごと後梁に降った。ほどなく温韜は再び李茂貞につき、李茂貞は温韜を義勝軍節度使とした[2]915年貞明元年)、後梁により耀州は崇州静勝軍と改められた[3]

923年同光元年)、後唐により崇州は耀州の称にもどされた[4]

970年開宝3年)、北宋により耀州に感徳軍節度が置かれた。耀州は永興軍路に属し、華原・同官富平美原三原雲陽の6県を管轄した[5]

のとき、耀州は京兆府路に属し、華原・同官・美原・三原の4県と黄堡・竜橋の2鎮を管轄した[6]

のとき、耀州は奉元路に属し、同官・富平・三原の3県を管轄した[7]

のとき、耀州は西安府に属し、同官県1県を管轄した[8]

1725年雍正3年)、により耀州は直隷州に昇格した。1735年(雍正13年)、耀州は西安府に転属した。耀州は属県を持たない散州とされた[9]

1912年中華民国により耀州は廃止され、耀県と改められた。

脚注

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  1. ^ 新唐書』地理志一
  2. ^ 新五代史』温韜伝
  3. ^ 旧五代史』梁書末帝紀
  4. ^ 『新五代史』職方考州譜
  5. ^ 宋史』地理志三
  6. ^ 金史』地理志下
  7. ^ 元史』地理志三
  8. ^ 明史』地理志三
  9. ^ 清史稿』地理志十