藤原大継
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時代 | 奈良時代後期 - 平安時代初期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 大同5年1月4日(810年2月11日) |
官位 | 従四位上、神祇伯 |
主君 | 光仁天皇→桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇 |
氏族 | 藤原京家 |
父母 | 父:藤原浜成 |
兄弟 | 永谷、継彦、臣継、大継、承之、豊彦、法壱 |
子 | 高雄、賀登理、豊主、豊継、豊吉、河子 |
藤原 大継(ふじわら の おおつぐ)は、奈良時代後期から平安時代初期にかけての貴族。藤原京家、参議・藤原浜成の子。官位は従四位上・神祇伯。
経歴
[編集]光仁朝において、従五位下に叙爵したのち、宝亀8年(777年)少納言、宝亀10年(779年)伊予介に任ぜられる。
桓武朝に入り、天応2年(782年)に発生した氷上川継の乱に伴い父・浜成が連座して参議を解任されると、大継もその影響を受けたらしく、桓武朝の前半は官職に就いた記録がない。延暦8年(789年)大判事に任ぜられ官界に復帰すると、のち宮内少輔・備前介を歴任する。延暦11年(792年)後宮に仕えていた娘の河子が桓武天皇の皇子・仲野親王を儲けたのちは順調に昇進し、延暦25年(806年)迄に従四位下に至った。またこの間、下総守・大蔵大輔・伊勢守を歴任している。
平城朝では左京大夫・典薬頭・神祇伯を歴任し、大同3年(808年)には従四位上に至る。大同5年(810年)1月4日卒去。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 時期不詳:従五位下
- 宝亀8年(777年) 正月25日:少納言
- 宝亀10年(779年) 2月23日:伊予介
- 延暦8年(789年) 3月16日:大判事
- 延暦10年(791年) 正月28日:宮内少輔。7月28日:備前介
- 時期不詳:従五位上
- 延暦16年(797年) 正月7日:正五位下
- 延暦18年(799年) 6月16日:大蔵大輔、下総守如元
- 時期不詳:従四位下。左京大夫
- 延暦25年(806年) 2月3日:伊勢守。5月9日:兼典薬頭、左京大夫伊勢守如元
- 大同3年(808年) 11月17日:従四位上
- 時期不詳:神祇伯
- 大同5年(810年) 1月4日:卒去
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]- ^ 『日本文徳実録』斉衡2年9月17日条