計吐夷島
計吐夷島 | |
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所在地 |
帰属未定 (実効支配: ロシア) |
所在海域 | オホーツク海 |
座標 | 北緯47度21分00秒 東経152度28分30秒 / 北緯47.35000度 東経152.47500度 |
面積 | 73[1] km² |
最高標高 | 1,172[1][2] m |
最高峰 | 計吐夷岳 |
プロジェクト 地形 |
計吐夷島(けといとう)は、千島列島の中部にある島である。ロシア名はケトイ島 (o.Кетой)、英語表記はKetoy。
島の名前の由来はアイヌ語の「ケウ・トイ」で「骸骨・悪い」の意とする説がある。正保御国絵図と元禄御国絵図にはそれぞれ「ケトナイ」「けとない」とある。これについては島にある谷を「ケトナイ」(両岸が骸骨のように聳立(しょうりつ)した渓谷)と呼び、それが島の名前に転じたとする説がある。
地理
[編集]新知島の北東、新知海峡を挟んで約 20 キロメートルを隔てた、直径約 8 キロメートルの円形の火山島である。島全体が山岳で形成されており、主な山は次の通り。
- 計吐夷岳(けといだけ、海抜:1,172 メートル[1][2]、ロシア名:ケトイ山 влк Кетой、英名:Ketoy)、カルデラ湖の西岸にある本島最高峰。
- 白烟山(しろけむりやま、海抜 993 メートル、ロシア名:パラス山 влк Палласа、英名:Pallas)、島のちょうど中央部に位置する。
島の中央南西寄りには、幅約 1.5 キロメートルのカルデラ湖である計吐夷湖(けといこ)が淡水を湛えている。また、白烟山の直径 550 メートルほどの火口クレーターの中にも、火山に特有な青緑色の水を湛えた火口湖が存在する。噴火を起こした記録があるのは白烟山の方で、その規模が最大なのは1843年~1846年の間に起こしたものであり、最後に噴火したのは1960年である。
海岸は絶壁が続き船を寄せがたく、一部の崖は約 500 メートルの険しさを有しており、南岸にある三並湾(みなみわん)が辛うじて上陸地点となっていた。植生について、本島は千島列島における笹の北限である[3]。
また、戦前に本島を訪れた北海道大学の舘脇操は自らの著書に「中部千島で一番孤独で陰鬱な島」と称している[4]。
歴史
[編集]計吐夷島には古来定住者がなく、羅処和島に住んでいた千島アイヌが冬季に来島して、鷲を捕らえていたという[要出典]。
- 1644年(正保元年) - 「正保御国絵図」が作成された際、幕命により松前藩が提出した自藩領地図には、「クナシリ」「エトロホ」「ウルフ」など39の島々が描かれていた。
- 1715年(正徳5年) - 松前藩主は幕府に対し、「北海道本島、樺太、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告。
- 1855年(安政元年) - 日露通好条約によりロシア帝国領となる。
- 1875年(明治8年) - 樺太・千島交換条約により日本領になる。
- 1931年(昭和6年) - 北太平洋航路調査を行っていたチャールズ・リンドバーグ夫妻の機体が島南東海面に不時着。島には接岸できる海岸が限られているため[5]機体を新知島の武魯頓湾に移動させて修理が行われた[6]。
- 1945年(昭和20年) - 8月、ソ連軍が上陸し占領する。日本が降伏した9月2日に出された一般命令第1号により、ソ連占領地とされた。
- 1946年(昭和21年) - GHQ指令により、日本の施政権が正式に停止される。直後に、ソ連が領有を宣言する。
- 1952年(昭和27年) - 日本国との平和条約で日本は領有権を放棄する(ソ連は未調印)。以後、日本政府は千島列島の帰属は未確定と主張する。
- 1991年(平成3年) - ソビエト連邦の崩壊後に成立したロシア連邦が実効支配を継承。
1945年以前は越年舎が建てられており、北海道根室振興局管内の新知郡に属した[要出典]。
現在はロシア連邦が実効支配しているものの、日本政府は国際法上、帰属未定地であるとしている[要出典]。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 『北方領土地名考』 北方領土問題対策協会編、1978年
- ^ a b c “International Kuril Island Project(IKIP、国際千島調査、英文)”. University of Washington Fish Collection or the respective authors. 2009年7月24日閲覧。
- ^ a b “Global Volcanism Program”. 米国立自然史博物館(英文). 2009年7月14日閲覧。
- ^ 北海道における最終間氷期以降のササの地史的動態 -ササを指標とした積雪・温量環境の推定- 日本植生史学会
- ^ 北海道新聞社編 『千島縦断』、1994年 140 頁
- ^ 千島の無人島沖合に不時着『大阪毎日新聞』(『昭和ニュース事典第3巻 昭和6年-昭和7年』本編p759 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 機体を引航して武魯頓湾で修理『東京朝日新聞』昭和6年8月22日(『昭和ニュース事典第3巻 昭和6年-昭和7年』本編p760 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)