遂安郡
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位置 | |
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各種表記 | |
チョソングル: | 수안군 |
漢字: | 遂安郡 |
日本語読み仮名: | すいあんぐん |
片仮名転写: | スアン=グン |
ローマ字転写 (MR): | Suan-gun |
統計(2008年) | |
面積: | 665.51 km2 |
総人口: | 76,890 人 |
人口密度: | 115.54 人/km2 |
行政 | |
国: | 朝鮮民主主義人民共和国 |
上位自治体: | 黄海北道 |
下位行政区画: | 1邑1労働者区17里 |
遂安郡(スアンぐん)は、朝鮮民主主義人民共和国黄海北道に属する郡。
地理
[編集]黄海北道の北部に位置する。
隣接する行政区画は以下の通り。
歴史
[編集]統一新羅の時代に栖巌郡の直下に獐塞県が設置され、高麗初期に現在の遂安という地名が用いられるようになった。1018年には谷州の属県として遂安県が置かれた。一時元の支配下に置かれており、高麗による回復後の1310年に遂州に昇格している。朝鮮王朝成立後の1417年に遂安郡となり、黄海道に所属した。
1895年の行政区画再編により開城府所属の遂安郡となり(二十三府制)、14坊が属した。翌1896年に黄海道遂安郡となり(十三道制)、坊が面に改められている。
韓国併合後の1914年の行政区画再編では面の統合が行われて11面となっている。
1943年時点で、黄海道遂安郡は以下の9面から成っていた。
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朝鮮民主主義人民共和国成立後、1952年12月に行われた行政区画再編により、遂安面・泉谷面・大城面の全域と、栗界面・大梧面の各一部に、新渓郡沙芝面の一部、瑞興郡九圃面の一部が編入されて遂安郡(1邑19里)が再編成され、旧遂安面内(現在の石潭里)に邑が置かれた。このとき、旧遂安郡のうち北部の遂安面・道所面・延岩面・公浦面などが延山郡となり、西部の栗界面の一部は燕灘郡となっている。
1953年、郡北部の社銅里(旧大梧面)に邑が移転し、遂安邑と改称された。
年表
[編集]この節の出典[1]
- 1914年4月1日 - 郡面併合により、黄海道遂安郡に以下の面が成立。(11面)
- 邑内面・公浦面・城洞面・道所面・大坪面・梧洞面・泉谷面・水口面・延岩面・大千面・栗界面
- 1929年 - 邑内面が遂安面に改称。(11面)
- 1939年 (9面)
- 城洞面および大坪面の一部が合併し、大城面が発足。
- 大千面・梧洞面の各一部が合併し、大梧面が発足。
- 大坪面の残部が遂安面に編入。
- 大千面の残部が延岩面に編入。
- 梧洞面の残部が泉谷面・遂安面に分割編入。
- 1952年12月 - 郡面里統廃合により、黄海道遂安郡遂安面・泉谷面・大城面および栗界面・大梧面の各一部、新渓郡沙芝面の一部、瑞興郡九圃面の一部地域をもって、遂安郡を設置。遂安郡に以下の邑・里が成立。(1邑18里)
- 遂安邑・龍浦里・西坪里・泉岩里・新垈里・佐位里・上徳里・水徳里・鉄山里・朝陽里・玉峙里・山北里・石橋里・社銅里・坪院里・島田里・星橋里・龍峴里・楠社里
- 1953年 (1邑1労働者区17里)
- 遂安邑が石潭里に降格。
- 楠社里が南亭労働者区に昇格。
- 社銅里が遂安邑に昇格。
- 1954年10月 - 黄海道の分割により、黄海北道遂安郡となる。(1邑1労働者区17里)
- 龍浦里の一部が山北里に編入。
- 西坪里の一部が佐位里に編入。
- 玉峙里の一部が島田里に編入。
- 山北里・島田里の各一部が龍峴里に編入。
- 坪院里が黄海北道谷山郡西村里との境界線を調整。
- 1963年 - 山北里・石橋里の各一部が合併し、周耕里が発足。(1邑1労働者区18里)
- 1967年 - 西坪里・泉岩里の各一部が石潭里に編入。(1邑1労働者区18里)
- 1972年 - 石潭里の一部が遂安邑に編入。(1邑1労働者区18里)
- 1974年 - 朝陽里が玉峙里に編入。(1邑1労働者区17里)
- 1981年 - 石潭里の一部が遂安邑に編入。(1邑1労働者区17里)
- 1986年 - 延山郡新楽里の一部が遂安邑に編入。(1邑1労働者区17里)
行政区画
[編集]遂安郡は1邑1労働者区17面からなる[1]。
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脚注
[編集]- ^ a b “北韓地域情報ネット・行政区域情報館 遂安郡” (朝鮮語). 2015年8月9日閲覧。
外部リンク
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