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上方柳次・柳太

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

上方 柳次・柳太(かみがた りゅうじ・りゅうた)は、日本の昭和時代に活動した漫才コンビ。同時期にデビューした「はんけん」こと若井はんじ・けんじに対し、「柳柳」の略称で呼ばれて人気を博した。

メンバー

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ツッコミ担当。本名:沢田 敏治[1]徳島県出身[1]大阪市東横堀生まれとも)。喜劇2代目博多淡海に入門。淡海が一座を解散した1949年(昭和24年)ごろ、三遊亭柳枝の柳枝劇団に入団し、沢田二郎[1]を名乗る。
柳太に先立たれた後も相方を変え、長年にわたって活動を続けた。肝硬変で死去。
ボケ担当。本名:福井 靖益。三重県伊賀上野出身。団員だった実兄を頼って柳枝劇団に入団[3]、河合金児を名乗る。
額が広く、「デボチン[2]の柳太」の愛称で呼ばれた。肺がんで死去。

コンビ経歴

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柳太がはじめ実兄にコンビの結成を持ちかけるも断念。その後、柳太の兄が劇団の地方巡業で大阪を留守にしている間に、柳次が柳太を誘い、コンビ結成。1957年(昭和32年)[2]京都富貴席でデビュー。新花月神戸松竹座などをホームグラウンドにした。

NHKテレビの人気番組『お笑い三人組』に対抗して、神戸松竹座などで初代森乃福郎と3人で「大阪爆笑三人組[1]」という喜劇を上演した。

柳太の死去後、柳次は1979年8月より若井けんじとコンビを結成する[1]も、けんじの東大阪市会議員選挙への出馬のため解散。

1981年(昭和56年)からは妻の上方一枝(東京出身。1928年11月1日生まれ。あした順子・ひろしの順子の姉[4]。戦前は玉川スミと音曲漫才をやっていた)と組み、道頓堀角座浪花座に出演。1998年頃まで舞台に立った。当時は松竹芸能所属。[5]

弟子

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弟子には上方よしお[2]中田カウス中田アップ門下に移籍)らがいる。

受賞歴

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ギャグ

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  • 「いやぁ~、会いたかったよォ~[2]」 - 柳次のギャグ。オール阪神・巨人の阪神に引き継がれた。
  • 「よう来たなぁ」[5]
  • 「そんなこと言いなや、今さら」
  • 「しゃぁさかい、まかせなさ~い」[2]
  • 「びびんちょ」
  • 「~しゃんな」[5]

レコード

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メディア出演

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映画
演芸放送番組
テレビドラマ

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 上方 柳次 コトバンク - 典拠は日外アソシエーツ『新撰 芸能人物事典 明治~平成』(2010年)
  2. ^ a b c d e f g h 第16回上方演芸の殿堂入り (平成24年度) 大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)
  3. ^ a b 上方 柳太 コトバンク - 典拠は上に同じ
  4. ^ 「東京漫才列伝」(東京新聞出版局、2002年)
  5. ^ a b c 「もうひとつの上方演芸」(たちばな出版、1997年)