工藤紀夫
工藤紀夫 九段 | |
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名前 | 工藤紀夫 |
生年月日 | 1940年8月2日(84歳) |
プロ入り年 | 1955年 |
出身地 | 青森県弘前市 |
所属 | 日本棋院東京本院 |
師匠 | 前田陳爾・勝本哲州 |
段位 | 九段 |
概要 | |
タイトル獲得合計 | 2 |
七大タイトル | |
王座 | 1期 (1977) |
天元 | 1期 (1997) |
碁聖 | 挑戦者 (1985) |
工藤 紀夫(くどう のりお、昭和15年(1940年)8月2日 - )は、囲碁の棋士。青森県弘前市出身、日本棋院東京本院所属、前田陳爾門下、九段。元日本棋院副理事長。
第25期王座・第23期天元位。第31回棋道賞優秀棋士賞受賞。若い頃は力碁で「眠狂四郎」のニックネームがあったが、後年粘り強く冷静な棋風へと変化した。
現在、存命の七大タイトル獲得経験者では最年長である。
経歴
[編集]生後すぐ、家族とともに満洲にわたる[1]。日本の敗戦により、苦難の旅で弘前にひきあげる[1]。
小学1年生の時に囲碁をおぼえ、当時、妻の実家があった弘前に疎開していた勝本哲州(元「棋道」編集者)に師事する[2]。1952年に勝本が家族と上京する[3]。小学校卒業の1953年に勝本に誘われて上京し[3]、日本棋院院生となり、1955年入段して前田陳爾門下となる。1976年九段。
1960年、日本大学第二高等学校[4]卒。
大竹英雄・林海峰と並ぶ素材と期待され、若手時代はその3名で「三羽烏」ともよばれた[5]。だが、なかなかタイトル戦線に登場できなかったが、1977年に趙治勲を破って初タイトルとなる王座を獲得。
1997年、柳時熏を降して57歳で天元位を獲得、20年ぶりにタイトルホルダーに返り咲いた。
翌年小林光一に敗れてタイトルを失うが、翌々年再び挑戦権を得てリターンマッチに挑むなど、中高年の星として話題を集めた。
2011年10月6日、公式戦通算1000勝達成(613敗4ジゴ)[6]。史上16人目で、最年長での到達[7]。
1986年、日本棋院棋士会長[8]。 棋士間での人望も厚く、2002年に日本棋院常務理事。2004年同棋院副理事長、2005年~2006年理事長代行[9]。加藤正夫らとともに棋院改革に当たった。理事時代の2002年、コミを5目半から6目半に変えた。2005年、国際囲碁連盟(IGF)会長に就任。
また地元青森県で「工藤紀夫杯争奪囲碁大会」を開催するなど、アマチュアへの普及にも熱心なことで知られる。囲碁の他、将棋はアマチュア五段の腕前を持つ。
タイトル獲得歴
[編集]- 王座1期(1977年)
- 天元1期(1997年)
その他の棋歴
[編集]新手
[編集]「村正の妖刀」に対し、白1へと大々ゲイマに(通常の大ゲイマより一路広く)打つ手を開発している。1977年の本田邦久九段戦で初採用。妖刀定石の有力な変化とされている。初めて対するプロ棋士であると、黒が白の五目を取り、白が外勢をはる変化になりやすい。工藤がアマチュアの弟子に質問されて、そこから発想した手という。
工藤流
[編集]黒番で1の星から3,5のシマリを打ち、白6のワリウチに黒7から9と構える布石を一時期多用し、「工藤流」と呼ばれた。
著作
[編集]- 『定石の選びかた 新中級シリーズ』日本棋院 1980年
- 『工藤紀夫・高木祥一』(現代囲碁大系32)1982年
- 『ひらめきの碁学』独楽書房 1984年(ユージン伝 2003年)
- 『最強の詰碁 初段・二段・三段―三手の詰碁から古典詰碁まで』成美堂 1998年
- 『五段へ!四つの実践 日本棋道協会の有段者特訓塾7』フローラル出版 2000年
- 『囲碁鉄人指南 中盤戦の定石―攻めと守りこの一手 (囲碁鉄人指南)』日本棋院 2001年
- 『二子強くなるヨセ学 (日本棋道協会の有段者特訓塾)』フローラル出版 2002年
- 『工藤紀夫—打碁鑑賞シリーズ<3>』日本棋院 2003年
- 『やさしい定石 (マイコミ囲碁文庫シリーズ)』2007年
- 『置碁三、四、五子局―白の狙いと黒の対策』日本棋院 2010年
- 『やさしい死活 詳解85型+211問 (マイコミ囲碁文庫シリーズ)』2010年
エピソード
[編集]- 若い頃の力碁は有名で、1955年影山利郎との対戦ではねじり合いから次々と黒石を打ち上げ、アゲハマ合計37個という歴史的な石取りを記録している。
- 1997年の天元戦5番勝負でコウの石をすぐに取り返すという反則を犯し、反則負けを喫した。しかしこのことに動ぜず戦い、33歳年下の柳時熏を3-1で降してタイトルを奪取した。
- 競輪ファンとして知られ、徳間書店から1986年に発刊された、阿佐田哲也編、『競輪痛快丸かじり』[10]にも登場した。